【SUPER GT】GT300クラスを制した「JLOC」って?

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2024年シーズンのSUPER GT GT300クラスは、最終戦での逆転劇の末、88号車『VENTENY Lamborghini GT3』がシリーズチャンピオンに輝きました。

この、88号車『VENTENY Lamborghini GT3』と、87号車『METALIVE S Lamborghini GT3』を走らせているチームが「JLOC」で、全日本GT選手権が産声を上げた1994年シーズンから参戦しており、31年目にして念願のシリーズチャンピオン獲得となりました。

では、「JLOC」とはどのようなチームなのでしょうか?
ご存知の方も多いと思いますが、敬意を込めて簡単に紹介したいと思います。

JLOCとは

JLOCの正式名称は、「日本ランボルギーニ・オーナーズ・クラブ(Japan Lamborghini Owner’s Club)」で、ランボルギーニ車のオーナーによる、ランボルギーニ社公認のクラブです。

「JLOC」が設立されたのは1980年。
ランボルギーニの生産台数は少ない上、価格も高いためオーナーが少なく、日常のメンテナンスやパーツの供給といった情報を共有するため、『ミウラ』のオーナーが中心になってJLOCが設立されました。

1988年に、第1回のミーティングを開催。
この時に設立されたクラブが、現在のJLOCの起源となっています。

最近の情報は調べきれなかったのですが、2003年1月現在での会員数は140名だそうです。

全日本GT選手権(JGTC)、SUPER GTへの参戦

GT1、GT500クラスへの参戦

チームJLOCは、日本ランボルギーニ・オーナーズ・クラブの有志によって1994年に結成されたチームです。
現在はGT300クラスに参戦していますが、当初はGT1(現在のGT500)クラスに参戦していました。

苦難の船出

JLOCのメンバーで、レーシングカーの設計を行っていた寺井輝昭氏はランボルギーニでレースに参戦を夢見ていましたが、資金もなければマシンもない状況。
そこで、1993年に全焼した『カウンタック』を入手し、やはりJLOCのメーンバーで、自動車雑誌編集長の明嵐正彦氏と、翌年から始まる全日本GT選手権への参戦を目指してマシンづくりを始めます。

しかし、マシンは春までに完成せず、開幕戦は欠場するしかありませんでしたが、『カウンタック』が参戦するというニュースがファンの反響を呼んでおり、主催者から開幕戦への参戦を打診されました。

そこで、JLOCは市販車の『カウンタック』を入手。
内装を引っぺがし、かろうじてブレーキとタイヤホイールだけをレーススペックにしただけのマシンで、開幕戦への参戦を実現させました。
しかし、ランボルギーニとはいえども市販車。
重量は重く、エンジン、ミッション、クラッチ、デフは市販仕様のまま…
第2戦仙台ハイランドでの8位が最高位で、5戦中完走2回という結果に終わりました。

試練の時

翌1995年、JLOCは『ディアブロ・イオタ』を開発。開幕戦からこの車両で参戦しましたが、5戦中完走3回。1996年は5戦中完走2回で、ポイントの獲得もなりませんでした。
なお、1996年から、クラスの名称がGT1からGT500に改称されました。

1997年は新開発の『ディアブロGTR』で参戦。シーケンシャルミッションも搭載されましたが、このシーケンシャルミッションにトラブルが発生し、5戦中完走2回という結果に終わりました。

1998年は97年のマシンを大幅に改良した『ディアブロGT-1』と『ディアブロ イオタ』の2台体制で参戦。
『ディアブロGT-1』は6戦に参戦してすべて完走。2戦でポイントを獲得しました。
1999年は昨年と同じ『ディアブロGT-1』で参戦。7戦中4戦で完走という結果でした。

2000年も『ディアブロGT-1』で参戦。ポイント獲得こそなりませんでしたが、7戦すべてで完走。
さらに、鈴鹿1000kmでは、メーカー系チームを抑えて、3位表彰台を獲得しました。

2001年は新型『ディアブロGT-1』を投入したものの、マシンの開発が遅れたため、開幕戦はまともに走ることができずに予選落ち。その後も熟成不足でリタイアが続きましたが、後半の3戦で完走を果たしました。
2002年、2003年も同じ『ディアブロGT-1』で参戦したものの、2002年は完走2回、2003年は完走4回で、ポイントの獲得はなりませんでした。

2004年には新車『ムルシエラゴRG-1』を投入するも、FIA-GT規定のマシンを小変更したマシンはJGTCのレギュレーションでは不利に働き、完走も1回止まりとなりました。

GT500クラスからGT300クラスへ

JGTCがはじまって以来、JLOCは最高峰クラスのGT1、GT500クラスに参戦し続けてきましたが、メーカー系チームがしのぎを削るGT500クラスからGT300クラスへエントリーを変更します。

GT300クラスへの移行

2005年、JLOCはGT500クラスに『ムルシエラゴRG-1』で参戦すると同時に、GT300クラスにも第4戦SUGOから『ムルシエラゴRG-1』を投入します。
GT500クラスでは4戦中完走2回、GT300クラスでは第4戦から参戦した87号車が4戦中完走2回、第6戦では8位に入りポイント獲得。最終戦に参戦した86号車は完走と、手応えを感じる結果となりました。

念願の初勝利

2006年はGT300クラスに2台体制でエントリー。マシンは引き続き『ムルシエラゴRG-1』を使用。
87号車は、8戦に参戦して完走7回。最高位は5位で、3戦でポイントを獲得しました。
88号車は、開幕戦鈴鹿で念願の初勝利を挙げ、8戦中5戦で完走。4戦でポイントを獲得。年間順位も11位と健闘しました。

2007年シーズンは4台体制でのエントリー。
昨年までの『ムルシエラゴRG-1』2台に加え、『ガイヤルド RG-3』を2台投入。
カーナンバー87と88を背負った『ムルシエラゴRG-1』は、開幕5戦で少なくともどちらかがポイントを獲得したうえ、第3戦富士では88号車が2位表彰台を獲得するなど健闘しましたが、第5戦で87号車が炎上。原因究明のため、その後の3戦には出走しませんでした。
一方の『ガイヤルド RG-3』は熟成不足が響いて予選落ちやリタイアが多く、2台合わせて完走は5回のみでした。

2008年シーズンは『ムルシエラゴRG-1』1台と、『ガイヤルド RG-3』2台の3台体制で参戦。
開発資源を『ガイヤルド RG-3』に絞った効果もあってか、87号車が9戦中6戦、88号車が9戦中7戦で完走しましたが、ポイントを獲得したのは、もてぎでの3位表彰台を含む『ムルシエラゴRG-1』の3戦だけでした。

2009年シーズンも同じ体制で参戦しますが、『ムルシエラゴRG-1』が第7戦富士での3位表彰台を含む3戦でポイントを獲得。
『ガイヤルド RG-3』も熟成が進み、88号車が2戦でポイントを獲得しました。

2010年、2011年シーズンも3台体制で挑みましたが、マシンはすべて『ガイヤルド RG-3』に。
2010年は86号車が第8戦もてぎで3位表彰台を獲得するなど、JLOCとして初のシーズン1桁順位をマーク。
2011年は87号車が第4戦SUGO、第5戦鈴鹿、第8戦もてぎで3位表彰台を獲得するなど、上位争いの常連となります。

FIA-GT3規定のマシンへ

2012年シーズンは、昨年までの『ガイヤルド RG-3』2台に加え、FIA-GT3規定の『ガヤルドLP600+ GT3』2台を投入します。
『ガヤルドLP600+ GT3』は投入初年度から速さを見せ、87号車が第8戦もてぎで2位表彰台を獲得。88号車も第4戦SUGO、第5戦鈴鹿、第8戦もてぎで3位表彰台を獲得しました。

2013年シーズンは、昨年投入した2台の『ガヤルドLP600+ GT3』に加え、『ガヤルド GT3 FL2』を投入。これですべてのマシンがFIA-GT3規定のマシンになります。
開幕戦では、投入したばかりの『ガヤルド GT3 FL2』が3位表彰台を獲得。
86号車『ガヤルドLP600+ GT3』も、第2戦富士と第6戦富士で3位表彰台を獲得しました。

2014年、2015年シーズンは、2台の『ガヤルド GT3 FL2』で参戦。
2014年に88号車が第4戦SUGOで優勝。87号車が第5戦富士で3位表彰台を獲得しました。

ガヤルドGT3からウラカンGT3へ

2016年シーズンからは、マシンを『ウラカンGT3』に変更し、2台体制で参戦します。
2016年の第7戦もてぎで88号車が3位、2017年の第6戦鈴鹿で88号車が2位、87号車が3位、2017年の第7戦オートポリスで87号車が2位。
さらに、2016年から2018年の3年間で、リタイアは2台合わせてわずか4回と、強さと速さを見せつけます。

2019年シーズンは、第2戦富士で88号車が3位表彰台を獲得。第5戦では87号車が優勝を飾ります。
そして、第6戦からは『ウラカンGT3』に代えて『ウラカンGT3 Evo』を投入。その第6戦オートポリで、88号車がいきなり3位表彰台を獲得しました。

2020年から2022年まで、『ウラカンGT3 Evo』の2台体制で参戦し、2位表彰台を3度獲得していますが、シーズン最高順位は2021年の88号車の8位が最高でした。

2023年シーズンは、第4戦富士から、88号車を『ウラカンGT3 Evo2』にアップデート。最終戦もてぎでは優勝を飾っています。
また、引き続き『ウラカンGT3 Evo』で参戦した87号車も、第5戦鈴鹿で2位に入っています。

念願のシリーズチャンピオン獲得

2024年シーズンは、JLOCにとって忘れられないシーズンとなりました。

第2戦富士で、88号車がポール・トゥ・ウィンを飾ると、第7戦オートポリス、第8戦もてぎでも優勝。
トップと11点差で迎えた最終戦鈴鹿では、まず予選でポールポジションを獲得して3点追加。ライバルがノーポイントだったため、点差は8点に。
優勝回数でライバルを上回っているため、このまま優勝し、ライバルが3位以下ならシリーズチャンピオン獲得という大一番を見事にポール・トゥ・ウィンで飾り、ライバルが4位に沈んだために、念願のシリーズチャンピオン獲得となりました。

初参戦から36年。
オーナーズクラブという、レース界では決して潤沢な資金があるわけではない、小さなクラブが挙げた大きな勝利でした。

ル・マンへの挑戦

あまり知られていないことですが、JLOCはかつて、ル・マン24時間レースにも挑戦しています。

初参戦は2006年。
『ムルシエラゴR-GT』でGT1クラスに参戦し、予選は34位。
決勝では283ラップを走行しましたが、最終ラップを走りきれなかったため、完走扱いにはなりませんでした。

2回目の挑戦は翌2007年。
前年と同じく『ムルシエラゴR-GT』でGT1クラスに参戦し、予選は43位。
予選でクラッシュし、予選2日目を走行することができませんでしたが、特別に決勝レースへの出走を認められました。
しかし、ドライブシャフトのトラブルで、1周でリタイアとなっています。

3回目の挑戦は1年あけた2009年。
この年も『ムルシエラゴR-GT』でGT1クラスに参戦しましたが、トラブルに苦しみ予選は最下位の55位。決勝レースも1周でリタイアとなっています。

4回目の挑戦は翌2010年。
マシンは『ムルシエラゴ LP 670 R-SV』でLMGT1クラスに参戦。
予選は53位。決勝レースは138ラップを走行しましたが、ギヤボックスのトラブルでリタイアとなっています。

ひとこと

同じメーカーの車を所有する人たちの集まりが、国内最高峰のGTレースに参戦したり、ル・マン24時間レースに参戦したり…
なんて夢がある話なんでしょう。

しかも、国内に何人いるのか、その気になれば数えられてしまうような、ランボルギーニという希少な車のオーナーさんたちの集まりがこうやってレースをし、シリーズチャンピオンを獲得してしまうのですから、夢のような話です。

まぁ、一般庶民にとっては、ランボルギーニを所有すること自体が夢のまた夢なのですが…

でも、おそらく日本で1番オーナーが多いと思われるトヨタ車のオーナーズクラブを立ち上げて、1口の金額を小さくしてレース参戦資金を募っても、必要なだけの資金が集まるかどうかは怪しいところです。
やっぱり、ランボルギーニのオーナーさんたちの熱量が凄いんだと思います。

個人の集まりがレース活動を続けていくのは困難なことだと思いますが、これからも私たちに夢を見させて欲しいと願っています。

「簡単に」と言いながら、長々と書いちゃいました。すみません…

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